当社は古くより「疫病鎮護」「水難除け」「厄除け」「縁結び」の神様として遠州地方はもとより駿河・三河地方の多くの人々より『だいとうりゅうさま』、『ごんげんさま』の名で親しまれ、信仰されております。
正親町天皇天正2年(1574年)高天神城落城の時、武田勝頼率いる軍勢が当社及び大龍院を残らず焼き払ってしまった為残念ながらそれ以前の詳しい記録は残っていませんが、口伝によりますと、桓武天皇延暦十一年(792)勧請と伝えられ、山を神と仰ぎ初期のころは、ご社殿は無く後々になって本殿拝殿が建立されました。
「遠江古蹟圖繪(享和三年― 1803年)」によると
本社は大物主尊を祭り、奥の院(ここには宮はなく、石が一つ据えられていた)を大頭龍と言った。それを参詣者が大頭龍として拝み始めた。
とあります。
山を奥の院(大頭龍)と称し、前庭に大龍院という天台宗の寺院がありその傍らに山王権現が祭られていました。焼失の後、大頭龍権現と山王権現を相殿とし天正8年(1580年)に再建され、現在まで遠州地方だけでなく、駿河から三河地方に至るまで多くの人々に参拝されております。
享保19年(1734年) 正一位を受ける
宝暦13年(1763年) 拝殿再建
天明2年(1783年) オハキ(御幣)と恵比寿祭り始まる
天明6年(1786年) 鳥居前に青銅の灯篭建立(昭和20年に供出)
享和元年(1801年) お祭的の競射が始まる(駿河、遠州各地から射手集まる)
文化12年(1815年) 本殿再建
文化13年(1816年) お神楽始まる
文政7年(1824年) 唐金の鳥居を建立し、正一位大頭龍権現の社号額を掲げる(昭和20年に金属供出の対象になったが解体直前に終戦となって現存)
明治6年(1824年) 鳥居の額名「権現」を神仏分離令により「神社」に改める
大正15年(1926年) 社殿の屋根替え