青銅造りの鳥居で、江戸時代中期の文政7年(1824年)に3年半をかけて造立されました。棟梁となったのは遠州森町の山田七郎左衛門(駿遠両国鋳物師惣大工職)と三河国宝飯郡北金屋居住(豊川市北金屋)の中尾重右衛門藤原道寛(勅許御鋳物師大工職)で、当時の最高の職人に依頼をして造られたものです。
鳥居額は神祇官領長上従二位卜部朝臣兼雄公筆のものでしたが、明治元年の神仏分離令を受けて権現の名称が廃され神社となったため、明治6年に「大頭龍神社」の額に取り替えられました。
鳥居の裏には寄付者と寄付金が彫り込まれておりますが、驚くべきはその寄付者の多さです。浜名湖から大井川までの村々や個人、さらに駿河国の志太群から駿府、相模国、武蔵国、近江国の人々が寄付をしていることがわかります。
戦時中の金属回収令で当社にあった青銅の大きな灯篭と拝殿の屋根から落ちる雨水の受け水鉢は供出されましたが、この鳥居だけは供出の寸前で終戦を迎え解体をまぬがれました。
静岡県西部地域に現存している江戸時代の青銅造りの鳥居としては最大級であることから、菊川市の指定文化財に指定されています。